2月9日はオンパレード

2月9日は皆さんなんとなく予想が付くのでは?って思います!

 

2月9日は肉の日

 

理由は明確

語呂合わせですよ〜

2月9日は焼肉屋さんとかよく安くなりますよね〜〜

だから、普段はなかなか食べに行かない方も狙い目なんじゃないでしょうか

毎月29日に肉の日ってして安くしてるところもあるみたいですが、、、

年に1回ですからね〜

絶対に狙い目でしょw

 

語呂合わせ2連発

 

まだ、ありましたよ語呂合わせが、2月9日は服の日、フグの日なんだそうです〜〜

なんか、歴史もなんとなくわかるのでこれぐらいにしときましょうかww

 

2月9日は漫画の日

えー

なんでなんでしょうか?

これはこれは、驚きの理由でしたよ〜

漫画本専門古書店まんだらけ」が制定しました〜

えー、あのまんだらけですか、よく利用させてもらってます^_^

 

 

漫画家・手塚治虫の命日だそうですよ

由来は、漫画の神様の命日ですか、なるほど納得ですね〜

こうなったら、手塚治虫さんの人生を調べてみましょう^ - ^

 

手塚治虫の年表

1928年11月3日 - 大阪府豊能郡豊中町(現・豊中市)に生まれる。※岡町相生通りに生誕から2歳まで、引っ越して岡町曽根(萩の寺の付近)に2歳から5歳まで。
1933年 - 5歳のとき兵庫県川辺郡小浜村(現・宝塚市)の川面(かわも)の高台のふもとの元祖父の屋敷に一家で引っ越す。この頃から母と共に宝塚歌劇に親しむ。
1935年 - 池田師範学校附属小学校(現・大阪教育大学附属池田小学校)入学。
1939年 - 自分の名前「治」に虫を付けて「治虫」をペンネームとする。
1941年 - 大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)入学。
1945年3月 - 北野中学を卒業。勤労動員中6月の大阪大空襲に遭遇。7月、大阪帝国大学附属医学専門部に入学。
1946年1月4日 - プロデビュー作の四コマ漫画『マァチャンの日記帳』(少國民新聞(後の毎日小学生新聞)大阪版)の連載開始。
1947年 - 酒井七馬がもちかけた企画による長編漫画単行本(赤本)『新寳島』が刊行された(初版1月30日、4月20日、6月1日、7月25日と版を重ねて累積40万部が売れたとされる)。
1950年(22歳) - 上京中に学童社に立ち寄って加藤謙一と出会い、持っていた単行本用の原稿を見せたところ連載が決まり「漫画少年」誌で『ジャングル大帝』の連載開始。
1951年 - 1年留年し、大阪大学附属医学専門部(旧制)卒業。毎日放送開局時のアナウンサー採用試験に合格。偶然通りかかって受験してみたところ合格した、と後年同局の番組『あどりぶランド』で語っている。光文社の月刊誌「少年」に「アトム大使」(当初の予定はアトム大陸)を連載開始。
1952年 - 医師免許取得。『アトム大使』から路線変更した『鉄腕アトム』(連載予告では鉄人アトム)を『少年』 に引き続いて連載。東京都新宿区四谷に約1年半下宿する(四谷交差点(北西角。メトロ2番入り口前)「成木屋青物店」の2階。後の漫画作品「四谷快談」の舞台。『鉄腕アトム』などの執筆場所)。
1953年(25歳) - 東京都豊島区椎名町5丁目(現:豊島区南長崎3丁目)のトキワ荘に入居。『リボンの騎士』を講談社の月刊誌少女クラブに連載開始。
1954年 - 週刊朝日の昭和29年(1954年)4月11日号、頁22-23で「知られざる二百万長者 児童マンガ家・手塚治虫という男」として紹介される。
1954年 - 10月に豊島区雑司が谷並木ハウスに下宿。
1957年 - 東京都渋谷区代々木初台に借家。
1958年(30歳) - 第3回小学館漫画賞受賞(『漫画生物学』『びいこちゃん』)。練馬区大泉町(現:東大泉)の東映動画から漫画「ぼくのそんごくう」を元にした劇場用長編総天然色漫画映画「西遊記」の制作を持ちかけられて嘱託社員となる。
1959年 - 松下井知夫(まつしたいちお)が中心となって結成した「ストーリー漫画研究会」に参加(松下に結婚式の媒酌人を依頼)。
1959年 - 10月に岡田悦子と結婚。『週刊少年サンデー』創刊号から『スリル博士』を連載する。
1960年 - 練馬区谷原町(現:練馬区富士見台)に自らデザインした自宅を建てる。
1961年 - 奈良県立医科大学から医学博士の学位を授与される。主に東映動画から引き抜いた人材を中心とする6名で手塚治虫プロダクション動画部を設立し(12月には株式会社虫プロダクションとして登記)、自宅の庭の一角に作った建物で非商用アニメーション作品「ある街角の物語」の制作を開始。長男・眞(本名:真)が誕生。
1963年(35歳) - 自ら創設して社長も務めた虫プロダクション制作の日本初毎週30分枠のテレビアニメシリーズ[注 3]『鉄腕アトム』(モノクロ作品)がフジテレビにて1月1日から放送を開始する(丸4年間放送)。「ある街角の物語」が芸術祭奨励賞、第1回大藤信郎賞、ブルーリボン教育文化映画賞を受賞。
1964年 - 長女・るみ子が誕生。
1965年 - 日本初の1時間枠テレビアニメ「新宝島」を1月3日に放送(これは本来は手塚治虫原作の漫画を毎月1回1時間の枠で毎回完結の独立したアニメ番組化していく構想「虫プロ・ランド」の第1作目であったが、経営的な面から製作継続は無理と判断され、これ一作だけが作られて中止となった)。日本初のカラーテレビアニメシリーズ『ジャングル大帝』がフジテレビで10月6日から放送。毎日新聞社の特派員記者としてニューヨーク世界博覧会を取材するために渡米した際に偶然に同博覧会場のペプシコーラ館前に於いて生涯で一度だけとなったウォルト・ディズニーとの対面を果たす。W3事件。虫プロの版権部門を独立させた会社「虫プロ商事」を発足する。
1967年 - 虫プロ商事は月刊誌『COM』を刊行開始し、同誌に「火の鳥」の連載を開始。
1968年(40歳) - 虫プロ商事制作のテレビ番組「バンパイヤ」がフジテレビ系で放送開始。漫画制作のための手塚プロダクションを設立。
1969年 - 大人のための劇場用長編アニメーション「千夜一夜物語」を公開。
1970年 - 『火の鳥』で第1回講談社出版文化賞の児童まんが部門で受賞。日本万国博覧会大阪万博)にて「フジパンロボット館[注 16]」をプロデュース。少年画報社の「週刊少年キング」誌連載の『アポロの歌』に過度の性的描写があるとして、一部地域で青少年に対する発売禁止を受ける。
1971年 - 虫プロ社長を退任。(虫プロ商事の社長は継続)。手塚プロダクション動画部を作り、テレビアニメシリーズ「ふしぎなメルモ」を制作し、朝日放送(現:朝日放送テレビ。TBS系列)で放送。
1972年 -『ブッダ』を連載開始。
1973年(45歳) - 虫プロ商事とそれに続いて虫プロダクションが倒産。虫プロダクションの経営から手を退いた後も、手塚は個人で多額の債務保証を行っていたため債権者に追われる身となるが、知人の葛西健蔵(現・アップリカ・チルドレンズプロダクツ会長)が後見人となり、版権の散逸は免れた。11月19日、『週刊少年チャンピオン』にて『ブラック・ジャック』の連載開始。
1974年 - 練馬区から杉並区下井草に引っ越す。
1975年 - 漫画作品『ブッダ』、『動物つれづれ草』により第21回文藝春秋漫画賞を受賞。『ブラック・ジャック』により第4回日本漫画家協会賞特別優秀賞を受賞。
1977年 - 漫画作品『三つ目がとおる』、『ブラック・ジャック』により第1回講談社漫画賞少年部門受賞。講談社手塚治虫漫画全集』(当初は第1 - 第3期の全300巻を予定)刊行開始。
1978年(50歳) - 日本アニメーション協会(Japan Animation Association = JAA)の初代会長となった。
1978年 - 日本テレビ系の夏の「24時間テレビ」の中で、日本初の単発2時間枠のスペシャルアニメ番組「100万年地球の旅 バンダーブック」を放送。
1979年 – 児童漫画の開拓と業績により巌谷小波文芸賞受賞。
1980年 - 東宝洋画系で劇場用長編アニメーション「火の鳥2772」を公開。サンディエゴ・コミック・コンベンション・インクポット賞受賞。国際交流基金のマンガ大使として国連本部、米国の大学で現代日本のマンガ文化について講演。
1983年(55歳) - 漫画作品『陽だまりの樹』により第29回(昭和58年度)小学館漫画賞(青年・一般向け部門)受賞。
1984年 - 実験アニメーション『ジャンピング』がザグレブ国際アニメーション映画祭グランプリおよびユネスコ賞を受賞。
1985年 - 実験アニメーション『おんぼろフィルム』が第1回国際アニメーション映画祭広島大会グランプリ受賞。東京都民栄誉賞受賞。漫画家生活40周年、『講談社 手塚治虫漫画全集』(当初予定した3期分全300冊)の完結により、講談社漫画賞特別賞受賞。同年7月にフランスで開催された「日仏文化サミット85」(朝日新聞社、フランス文化省、コミュニケーション国際広場CICOM主催、日仏両国外務省後援)に参加。
1986年 - 漫画作品『アドルフに告ぐ』により、第10回講談社漫画賞一般部門受賞。
1987年 - 愛知県岡崎市で開催の地方博覧会「葵博」の総合プロデューサーを務める。
1988年[2月13日 - 朝日賞受賞記念講演(東京・有楽町朝日ホール)、講演題「アニメーションと私」。
1988年6月4日 - 高橋健、矢島稔、田中栄治らと「日本昆虫倶楽部」を創設し初代会長に[244]。
1988年(60歳) - 戦後マンガとアニメーション界における創造的な業績により朝日賞受賞。実験アニメーション「森の伝説」で毎日映画コンクール大藤賞受賞。ザグレフ国際アニメーション映画祭CIFEJ賞(青少年映画賞)を受賞。体調悪化により急遽入院(スキルス性胃癌と判明するが本人自身には伝えられず)。11月1日に大阪教育大学附属池田小学校で生涯最後の講演を行う。
1989年2月9日 - 胃癌により入院中の半蔵門病院にて死去(享年60)

 

すいません、、、

ウィキペディアさんから丸々抜粋させていただきました。

 

このように見てみるとやっぱり、漫画を築いた方だなってわかりますね〜

 

ほんとに、感謝したいです。

今、漫画ないと困りますもん^ ^